狩猟での炎上で生まれる対立や分断をなくしたいなと思った話

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こんにちは。
畠山千春です。

私は2013年から狩猟を始めた新米猟師で、今は福岡県糸島市の小さな里山で「食べもの・お金・エネルギーを作る」をテーマにしたいとしまシェアハウスで暮らしています。

実は、私は数年前に狩猟で炎上しています。今回、ツイッターでちらりと見かけた福井県の女性猟師の方の炎上。覗いてみると、彼女に向けられた言葉が過去に自分にぶつけられた言葉そのもので胸が痛くなりました。まずは彼女が心穏やかに過ごせる日が早く来ることを祈っています。

 


<我が家の田んぼ!一本ずつ手植えしています>

 

それから、今回初めてこういった問題に触れた方もいると思うので、これを機に私たちの里山の暮らしや動物たちとの関わり合いについて知ってもらいたい、そして、炎上の中で生まれてしまう動物愛護と狩猟、里山暮らしの人と町暮らしの人、この対立や分断を生む構造をなんとかしたいなぁと思って、この記事を書きました。

あの炎上について気になっている方、よかったら読んでみてください。

(たくさんの人に読んでもらいたいので、狩猟・解体の写真は一切出さず、私たちの里山の暮らしや今まで作ってきた野生動物を使った美味しい料理をメインに載せていきます!安心して読まれてくださいね)

 


<集落での甘夏狩り>

 

【今回の炎上について】

福井県高浜町議員がフェイスブックなどに掲載していた、獣肉や自身を写した写真や文章が「命を軽視するような行為」で不適切だとして、東京の動物愛護団体が3月13日までに、児玉議員の辞職を求める要望書を同町議会事務局に送付したことが団体への取材で分かった。また、この写真などが別のSNS上で頒布されたことなどから、同町議会事務局に8日以降、100件を超す抗議のメールが送られる事態となっている。

(福井新聞より抜粋:https://www.fukuishimbun.co.jp/articles/-/814695

 

【ふざけた写真は、命の軽視なの?】

今回の炎上の件、私が見た時はすでに写真が削除されてしまっていたのですが、動物の命への敬意の表し方は人それぞれなのだから、他人が判断するのは難しいんじゃないかな…? というのが私の率直な気持ちです。

ぱっと見おちゃらけた猟師さんでも、家に自作の鳥獣供養塔(動物たちを弔う供養塔)があったり、捌き方がとても丁寧だったり、彼の小さな行動からにじみ出る命への誠意を感じたりしました。命への誠意や敬意って、命のやり取りを経験して感じざるをえなくなるというか、最終的にたどり着くものであって、表面的な一部分を切り取ってその姿勢を誰かがジャッジすることはできないんじゃないかな、と思います。

 


<イノシシの足の丸焼き。丸ごとかぶりつけます!骨はこの後、猪骨スープに>

 

狩猟を始めたばかりの頃、先輩たちと獲物を仕留めて笑顔で写真を撮ろうとしたら「こういう写真は怒られることがあるから歯を見せて笑わないで」と言われたことがあります。

現場では笑顔だったり仲間を褒めあったりする場面もあるのに、それを隠して神妙な顔だけ公開していくのって、なんか変だなって思っていました。私の先輩たちは皆とても真摯に命と向き合っている方ばかりだし、笑顔だからといってそれが軽率だとは全然思わないのに、と不思議でした。自分が炎上を経験するまでは。

いろいろな人の反応を見ていくなかで、狩猟や里山の暮らしと遠い場所にいる人たちにとっては、こういう行為が軽率に見えてしまうんだなということを学びました。

ただ、お肉を食べるということは、獲って(育てて)捌かれて食卓にのぼるまで全部がひと続きです。命の現場は確かに神聖な側面もあるけど、それと同時に暮らしの一部でもある。だから、真剣に向き合うときもあれば、冗談を言い合うときもあるし、笑顔が出るときもあるんだよーって伝えたいのです。

 


<縁側でくつろぐ>

 

<いとしまシェアハウスのメンバーたち>

 

お互いの命がかかっているわけですから、とどめを刺す瞬間はもちろん真剣です。ただ、その後山から下ろしてきてお肉にしていく解体作業は数時間かかる長丁場の作業。長時間集中力を持って最後まで作業するために、盛り上がる音楽をかけることもあります。

ウルフルズのガッツだぜを聞きながらノリノリで解体していたら、それが命を軽視していることになってしまうのでしょうか。

 

もちろん、公の場では誤解されにくい”命に対する尊厳を表した態度”を表現した方が理解が進む、とも思います。けれど、本音を言ってしまうと、常に一辺倒な”神聖なる態度”だけを発信することで「それが常にあるべき姿である」という「正義」が広まってしまっているような気もしています。

現場ではいろんな命との向き合い方があるのに、それを隠したり飾り付けたりすることが、私はあまり好きじゃありません。命の尊厳への表現や向き合い方については多様な形があるんだよということが伝えられるようになったらいいなあ、と思います。

 


<稲の収穫!>

 

【今の時代、本当に狩猟は必要ない?】

「お肉がお店で買える時代、狩猟は必要ない」という意見も、多く見かけました。

ただ、里山で暮らす身としては、自分たちの住む場所や作物を守るために狩猟は欠かせません。里山は人口減少もあって野生動物がどんどん山から下りてきているし、彼らの侵入を防ぐために、今や畑や田んぼに柵なしの生活はできません。農林水産省によると鳥獣による農作物被害金額は平成28年度で約172億円。我が家も一番被害の多かった年は田んぼの稲が140kg、イノシシに倒されてしまいました。

 


<イノシシに倒されていく稲たち。切ない>

 

石垣もイノシシに掘り返されてボコボコになるし、筍を掘り返したところの地盤が緩んで土砂崩れが起きたり、自分の場所を守る術を持っていないとこれから里山で暮らしていくのは難しいんじゃないかなと思うくらい、野生動物の影響って大きいんです。

もともと人手不足な里山の集落で石垣が崩れたりしたら大変。たくさんの人手と時間をかけて直さなきゃいけないし、放っておけばどんどん畑や田んぼ、道が荒れて、さらに里山から人が離れていくという悪循環があちこちで起きています。

 


<イノシシにかかれば、一晩でこんな状態に>

 

さらに、この問題は街に住む人たちにも大きく関わってきます。

街の人たちが自分で直接手を下さなくとも街に野生動物がいないのは、こうやって里山に住む人が人里への動物の侵入を防いでいるからです。もし狩猟がなくなったら野生動物は街へ流れ込むことになると思うし、実際に里山の機能が失われつつある今、街に野生動物が現れて人を襲ったりするニュースもよく見かけるようになりました。

こうして見えないところで、自分たちの街や暮らしが守られていること、知ってほしいなと思います。

街の人たちからすれば、里山で狩猟や解体をして命と関わり続けることは、残酷に見えるかもしれません。

だけど、ここでは自分も周りの動物たちもそうやって命を繋いでるし、私たちにとって野生動物は可哀想な生き物じゃなくて、たくましくて強くて、この場所で共に生きる仲間であり同志であり、ライバルなのです。そして、その関係性の先に自分たちの暮らしがあること、少しでも感じてもらえたら嬉しいです。

 


<養蜂もやってます。ハチかわいい>


<はちみつの収穫>

 

【他の命と関わらずに、生きている人はいない】

「私はお肉を食べません」
「動物性のものを使っていません」

という方もいらっしゃると思います。けれど、お肉を食べない人でも、野菜を作るために畑の周りの動物たちがたくさん駆除されていますし、里山での駆除によって街が守られているという側面もあります。

目に見える範囲では他の命を奪っていないように見えますが、実はこうした見えないところで様々な命が関わっているということも、知ってもらいたいなと思います。こういう命のやり取りの中で、人は生かされているんだと思います。

 


<鶏たちは、何にでも興味津々です>

 

猟も解体も養鶏もやってみて私がたどり着いたのは、結局私たちは他の動物の命に関わらずに生きることができないのだから、命に感謝して身の丈にあった分だけ食べるのがちょうどいいかな、ということ。だから普段はゆるいベジタリアンで、解体したときにだけお肉を食べる食生活になりました。

もちろんこれが正しい!というわけでなく、私が自分で罠作って山にかけて見回りして仕留めて解体して余すところなく丁寧に食べきるには莫大な時間とエネルギーがいるから、たくさん獲ったり買ったりするよりもこれくらいがちょうどいいかなって思っただけ。向き合い方は、人それぞれあるのだと思います。

 


<イノシシの腸とイノシシの肉でつくったソーセージ。絶品!>

 

多様な捉え方があるなかで、命の向き合い方や誠意の表し方に正義を作ったり、自分の命の線引きを相手にも強要してしまうと、さらに問題がこじれてしまうような気もしています。大切なのは、正義や命の線引きがどこにあるのかという話ではなく、どうやったら人間も動物も共に暮らしやすい環境を作っていけるか、というところだと思います。

特に狩猟については、心の優しい人や命を大切に想う人ほど違和感や抵抗が生まれてしまうのかもしれません。動物たちを守りたい、傷つけたくないという気持ちは、きっと誰もが持つ気持ちだと思います。私も動物にとどめを刺すときは、今でも心が痛みます。

けれど、里山で生きていくためには、そういう綺麗じゃない場面も一緒に抱えながら、暮らしていかなければいけません。

人間・動物に関わらず、一つの命が尊重される社会を作りたいという方は、動物たちだけでなく、彼らの暮らす里山の環境・生態系についてや、今地域で起きていること、その繋がりを含めた「全体像」を知ってほしいなと思います。

対立したり攻撃しあったりするのではなく、一緒にできることがきっとあると思います。

 


<さばいた鹿の毛皮と、獲ったイノシシの革でリュックを作りました>

 

【狩猟については、発信しないほうがいい?】

「狩猟は誤解されやすい文化だから、発信は慎重にしなければいけない」というのは大前提としてあると思います。

それでも私は、命の現場が過度に『聖なるもの』として扱われ、暮らしから分断されるのは、あんまり良くないなと思っています。自分の生活が何によって守られ、食物がどこから来るのか分からなくなって、その分断がさらなる誤解や炎上を生む気がするからです。

本音の本音を言うと、本当は笑顔で狩猟する姿も受け入れてもらいたい。これは私たちの暮らしの延長線上にあるものなのだから、隠したり修正したりするものでもないと思っています。

けれど、狩猟文化の理解が進んでいない今の段階で、直接的な発信は誤解を生みやすいし、きっと受け取る方もしんどくなってしまうと思います。それこそ、正義の押し付けになってしまう。

だからこそ、そういった点を踏まえつつ、(過去の反省もしつつ、)慎重に発信しながら、人と命と見えなくなったプロセスをつなぐことをしていきたい、というのが今取り組んでいきたいことです。

 


<一羽の鳥をさばいて、みんなで食べる>

 

どうやったら意見の違う人たちが歩み寄れるようになるのかな? こういう炎上でいつも起こってしまう対立や分断をどうにかこうにか、減らしたい。そう思っています。

数年後には、昔はこんなことあったよねーって笑えるくらいに里山の暮らしや狩猟の考えが浸透していたらいいな。そのために私も、できることを頑張ります。

 

👇いとしまシェアハウス、興味あるなって方はよかったら遊びに来てね!

http://itsmsh.com

👇解体・狩猟について書いた本「わたし、解体はじめました」、出てます。

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目指せ油の自給!イノシシ脂でラード作り。

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About chiharuh

twitter: @chiharuh facebook: http://www.facebook.com/chiharuh   ●畠山千春   新米猟師兼ライター   法政大学人間環境学部卒業。カナダ留学後NGO/NPO支援・映画配給会社に就職、3.11をきっかけに「自分の暮らしを作る」活動をスタート。  2011年から動物の解体を学び鳥を絞めて食べるワークショップを開催。2013年狩猟免許取得。  現在は福岡県にて食べもの、エネルギー、仕事を自分たちで作る「いとしまシェアハウス」を運営。第9回ロハスデザイン大賞2014ヒト部門大賞受賞。TEDxTokyoyz、TEDxKagoshimaにて登壇。   ブログ:ちはるの森 http://chiharuh.jp   著書:『わたし、解体はじめました―狩猟女子の暮らしづくり』(木楽舎) http://urx.mobi/B8LE

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