いのちをどこで区切る?

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ずっとモヤモヤしていて、
いつかこのモヤモヤがスッキリしたら更新しようと思っていたけど
いつまでたってもスッキリしなそうなのでもう更新しちゃう。

 

「いのちをどこで区切る?」っていうことについて。

 

私が屠殺WSをはじめてから、たくさんの方から色んな意見を頂きます。
そのたびに、いのちについてすごくすごくすごーーーく向き合う。

中には、残酷な行為を今すぐやめるべきとおっしゃる方もいます。
 

確かに、見た目は残酷なことかもしれない。

でも、食卓にお肉があるってことは、どこかでこういった行為が行われてるわけで
たくさんの人が、その「過程」を知らないでお肉を食べてる。
だからこそ、見えなくなった「過程」を伝えるために
WSを企画したり情報発信しているんだけどな。

 

お肉を食べるか食べないかの判断は参加者の方々それぞれが感じることであって、
私にはコントロール出来ないし、私も何が正しいとか分からない。
 

経験を通じて「食べることについて考える」っていう意味では、
動物の命を守りたいと思っている人たちと
向かっている方向は同じだと思っているんだけどなー。

 

 

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そこでね。
「食べる」ってなんだろう?って最近すごーーーーーく考えてる。

 

「食べて良いいのち」と「食べちゃいけないいのち」の線引きはどこなんだろう。
(これから話すのは、どれが良いとか悪いとかじゃなくて、単に私の気持ちの話ね。)

 
やっぱり、意識がある・無い、痛みを感じる・感じないで
いのちの重みを判断するのは、私はしっくりこない。
結局は人間が判断できるところだけで決めちゃってるような気がして。

 

私は、今までの経験を通して
動物も植物もかわらないひとつの「いのち」なんじゃないかって感じてる。
動物を食べる時にだけ「いのち」をいただいてるわけじゃないって。

 

そもそも、食べるっていうことは、そんなに罪深いことなのかなあ。
私たちは、毎日3回も罪深いことを繰り返しながら
生きてかなきゃいけないんだろうか…。

 

もしそうだとしたら、なんか悲しい。
私、食べること大好きだから。

 

…とか考えてたら超モヤモヤしてしまった。

 
とにかく、見た目は違えどわたしたちが常にいのちを食べてることに代わりは無い。
「たべる」ことで何らかの「いのち」を体内に入れている。
そうしないと私たちは生きていけない。

でもさでもさ、そう考えたら、
そんな罪深い悪いことをし続けないと生きていけないなんて
やっぱり納得できないんだよね。

 

うーーーーーーーん。

 

「命を奪う」っていう表現にも、なんとなく違和感を感じててね。
確かに、毛皮目当てで殺してお肉を放置したり、
無駄な殺生をしたら「奪う」ことになると思う。

でも、それを食べて自分の体の一部になったとすれば、
それは「奪う」ことなんだろうか。。
私が体験したときは、このいのちがおなかの中で続いていく…なんて感じたんだけど。

 

でも、自分が食べるために殺されるとしたらどうか、といわれたら確かに嫌だ。
恐ろしいし、死にたくない。
そんなときに「いのちがつながっていくから…」とか綺麗ごと言われたって
きっと納得できないだろうな。

 

うーーーーーん。

 

ね、モヤモヤするでしょ。

 

このモヤモヤを解決するためには、
「たべる」ということ、「いのちのつながり」について
深く考えていくことがヒントに繋がるんじゃないかと思ってる。

 

いつか、「これだ!」っていう答えが分かる日が来るんだろうかー。

モヤモヤは尽きない。

 

/////////////////

 

話は少々それてしまったけど、

お肉を食べる人にしても、ベジタリアンにしても、ビーガンにしても
「食べることにポリシーを持つ人」が私は好きだ。

 

いのちや、食べることとしっかりと向き合ってる人。
そういう人がもっともっと増えたらいいと思う。

 

たべることってなんやーーーーー。

 

もう寝る!

 
 

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▼本が出ました!
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私が新米猟師になるまでのエッセイ(ブログに書ききれなかったいろんなこと)や、動物別の解体方法、ジビエのレシピ集など、イラストを交えて紹介しています。

わたし、解体はじめました ─狩猟女子の暮らしづくり─

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about me!!

About chiharuh

twitter: @chiharuh facebook: http://www.facebook.com/chiharuh   ●畠山千春   新米猟師兼ライター   法政大学人間環境学部卒業。カナダ留学後NGO/NPO支援・映画配給会社に就職、3.11をきっかけに「自分の暮らしを作る」活動をスタート。  2011年から動物の解体を学び鳥を絞めて食べるワークショップを開催。2013年狩猟免許取得。  現在は福岡県にて食べもの、エネルギー、仕事を自分たちで作る「いとしまシェアハウス」を運営。第9回ロハスデザイン大賞2014ヒト部門大賞受賞。TEDxTokyoyz、TEDxKagoshimaにて登壇。   ブログ:ちはるの森 http://chiharuh.jp   著書:『わたし、解体はじめました―狩猟女子の暮らしづくり』(木楽舎) http://urx.mobi/B8LE

14 Comments

  1. こんにちは、タチバナナオキです。
    僕の奥さんは中国人なのですが、中国では動物の体を隅々まで食べつくします。食卓に、ほぼ元のままのカタチで出てきて、みんなでハシを使ってほぐして行く感じです。ニワトリも、本当の足の先まで食べます。足首より先ですね。それがカタチそのままに、コンビニで売られています。おいしんですよ。一般家庭のベランダに絞めて羽をむしった鴨が干されているのも、ごく普通の風景です。屠殺が日常に有る感じ。そして、そこには戸惑いも、深い感謝の気持ちも有りません。淡々としていて、また無駄にもしない。外食で余った食べ物は、タッパーに入れて持って帰るのが、普通の習慣なんです。

    「和食」の文化は、世界的にも評価されていますが、僕は時々、姿形をキレイにさばきすぎではないかと思うことがよくあります。「生き物」の原型をとどめていない。捨てるところも多い。それが、日本人を潔癖症にして、その食べ物の背景を思い描く想像力を奪っている様に思います。

    千春さんのワークショップは、問題意識のスイッチを押す素晴らしいアクションと思います。いつもこのブログを熟読させて頂いています。でも、それと同時に、そうまでしないと「思い出す」ことが出来なくなっている日本人の生活環境に、少し危ういモノを感じます。現実や本質から乖離して、「生きる力」が弱まっているような。

    僕たちはどうするべきなんでしょうね。真剣に考えてみます。

  2. 動物を殺して食べることを残酷だと言う人は、余裕があるんだなと思います。経済的余裕がなく、日々とにかく手に入るものを食べる人は、残酷と言う観念はありません。生きるために食べ、家族にも食べさせる。それだけです。今は物が手に入りすぎるのではないでしょうか。

  3. これは結局個人個人の「倫理感」にかかわることなので結論は出ないでしょうね・・・

    よく「食べることは原罪」だと言われます。
    また、食べることが「原罪」なのではなく、動物と違って「殺生が悪だ」という知性を持ってしまったことが「原罪」だとする人もいます。
    「原罪」については哲学者や宗教家に任せますが、やはり私も「食べることは他の生命をいただく罪悪」だと認識しています。(根拠のない私見です)
    だからこその両手をあわせての「いただきます」(感謝と贖罪の行為)だと思いますし・・・
    「食べて自分の体の一部になった」というのも知性ある生物だからこそ思い浮かぶ文句ではないでしょうか?「食べる側としての知性ある上から目線」って言えるような気がします。弱肉強食を地で行く動物たちは、ただ「お腹がすいたから食べる」だけですし、そこには「罪の意識」も「命をつなぐ」なんて高尚な思惑もないでしょうし。

    ただ、おっしゃる通り、植物を食べることも動物を食べることも、そこに差はないってことには大いに同感です。
    これも私見ですが、動物を殺すのは罪だから食べない。だからベジタリアンとして生きていけばいい、と動物を食べる人を否定する人を私は嫌悪します。
    それがたとえ自分から動くことのできない植物であろうと、命ある植物の生命をいただいていることには代わりがないのではないかと思うからです。(ベジタリアンはこれを「詭弁」と呼びますが)
    結局のところ人間は他の生物を殺して食べていかなくてはいけないので、それを罪と認識していようがいまいが、それは仕方のないことだと思うんです。

    だから文中の「「食べて良いいのち」と「食べちゃいけないいのち」の線引き」というのも、やはり食べる側からの知性ある上から目線に感じます。
    ある国の動物保護団体は「クジラは知性も高く人間の友人足りえる生物なので、そういう生き物を殺して食べるのは残虐行為である」と訴えます。ですがそう言いつつ、その人達は豚や牛を食べます。(ベジタリアンもいるのでしょうが、統計をとったわけではなく私見ですが数から言って少ないでしょう)
    その手の人達の口上はいつも決まって「豚や牛とクジラを一緒にするな」です。
    すなわち「「食べて良いいのち」と「食べちゃいけないいのち」の線引き」ですよね。
    でも考えれば、昨日まで友達だと思っていた人間に、ある日突然殺され(て食べられ)るのと、それまで自由に海を泳ぎ生きてきて、最後に弱肉強食という野生生物としての原点で負けて殺され(て食べられ)ることのどちらが残虐な行為でしょうか?

    長々と書いてしまいましたが、私も貴方のページを見て、いろいろと思うところあったもので乱文にてコメントをさせていただきました。こういうことを深く考える機会をいただけたことに感謝します。ありがとうございます。

    結論はこの「食べる」という行為に関して、それが正か悪かと問われるなら、究極の結論「人それぞれ」の思惑ということに帰結すると思います。

  4. これ、,

    これ、よければ読んでみて下さい。
    理不尽の海http://blog.goo.ne.jp/amenouzmet/e/d1bfdc21cf49603df6fbc7bd8011115a

  5. Pingback: 11月なので今年も自分の好きなブログを告白します(ver.2012) | クリエイティブメモメモ

  6. Pingback: 牛の受精がすごい!牧場行って来たよ。 | ちはるの森

  7. mm

    少なくとも、日常の煌びやかな飲食店やコンビニ、ファミレス、スーパーなどで提供されている膨大な飲食物の商品は、動物の膨大な死が
    なければ作られない物体ばかりである(野菜にしても、害獣駆除や肥料としての魚介類や動物の屍骸を使っている)事実を、私たちは「知る」べきであると思います。

    それを知らずに、うっすら知ってても知らないふりして日常を過ごすことこそ「酷い話」だと私は思います。

    それを見てみぬふりしての「動物愛護」とか私は支持しません、少なくとも。

  8. 残酷なのはちはるさんが「と殺♡」見たいな表現で書かれているからでは。名前つけて、触れ合って、かわいがってから。。。殺す。。。とか。それはなぶり殺しというのでは。一番残酷なしとめ方をさせて、それで命!って言われてもね。。。何かね。モヤモヤ感MAXです。

  9. Pingback: 【頂きますは、命を頂くこと】暮らしかた冒険家ちはるさんのWebマガジンが面白い。 | Buzzable[バザブル]:話題のニュースで人と情報のつながりを提供します。

  10. pk

    嫌悪感を持ちながら見てしまいました。もう見ません。

    殺すのが楽しいのですね。
    子供に押さえ付けられたり、抱き抱えられたり、殺される前からどんなに恐かったでしょう。
    本当に本当にかわいそうです。

  11. としろー

    食べるために動物を殺す。植物の生命を絶つ。
    人類の歴史で繰り返してきた捕食行為だし、自分は出されたモノを残さずに食べる事は意識して来ました。肉だろうが野菜だろうが、
    そっちの方が大事なんじゃないのかと。
    しかし、こうして経済社会のうえで分業してしまうと、我々消費者の中から独りよがりな考えで「かわいそう」「動物(だけ)殺すな!」と思う人が出現してしまうのは仕方の無い事ですね。ご先祖様の生きてきた歴史を切り捨てちゃってるし、間違いです。
    で、自分が生産者の側面でもし問題とするなら、必要な分だけ屠殺なり収穫されず、大量消費する事だと思っています。

  12. 個人的な命の価値という観点で見てみると宗教臭くなるのですが;似たような感じのことを悩んだことがありカキコさせて頂きました

    色々考えてみた中で生命の戦略と命の存在という意味で割りきってからは案外当たっているんじゃないかと思うようになりました。

    命そのものは個体の目的はただひとつ子孫を残すところに収束していくのですが、そこに食われる側食う側という矛盾があり個体観点ではこの矛盾が解決できないのはカンタンな話でした。

    生命史的に地球環境と生物存在のリソース?という面で見ると生命誕生以前は無機的環境がただ存在していて、以降は?というと有機物に溢れた生命にとって暮らしやすい環境になっていますね?

    岩や砂だけでなく有機物や微生物や酵素に充ちた肥沃な土壌がどれだけ高等な生命にとって重要かは20世紀までの人類の歴史をみても明らかです。
    (事によると現代でも地下資源なども含めるとまだこのサイクルにあるとも言えますね)

    死した命にも大きな価値があり生きてる命にも目的があると考えれば・・・日本の仏教の一部で言われる西方浄土東方蓬莱(西も東も極楽?)みたいな概念が見えてきたように思いました。

    生きる分に生活する分に命を狩るのは当たり前の話ではあるし?食う食われるというのもほぼ種族の在り様に決められているので。

    また死だから無になって収奪されるだけな訳でもなく、生命進化の為に物質的には栄養や土に成り代わり、また狩る側にも情報としてより高度な学習機会を与えて自分の種族へも同じく寄与するという構図が見えてきます。

    種族あるいは生命の側からみれば、生き残るというのがアクティブな方法論であれば食われるというのはパッシブな方法論であるとも言えて個人的には今のところ納得できております。

    過剰な保護論というものがよくネット上に見られますが、例をだすと完全ベジタリアンはもしタンパク合成不良な事になれば自己死覚悟ですし?特定種の保護?野生動物はダメというとかだと包括的な環境視点を見失っているので今日の日本の農家のような食害などの被害を受け入れて幾らかの人々の命を天秤にかけることになります。
    (鹿・イノシシ・猿・カラス数十万匹と村落のどっちを取る?という論理ならどうでしょう?)

    どちらも生命や種族的には見殺し?あるいは生命放棄とも見れるので上記の論理で言うと不完全燃焼な死?非効率な生き残り?となりナントモ短絡的だと思えます。

    (↑それすらも死する側としての価値はあるのでしょうけど生命戦略的には一つの試みなんでしょうが・・少なくとも食う食われるの相互益よりは瑣末な試みでしょうね)

    むしろ狩猟を通して被狩猟種族に係るのは生態系や自然環境への気付きを与えてくれますし、現代ではルール以上の狩猟側によるコントロールがされることでその種を保存する結果になりますよね?

    抑制できている装備で知恵をもって狩るならばその方法論に叶う獲物のみ狩れることで種族的生命保存の知識が深くなる面もあるので、得られた獲物は得られるべくしてそこにあるのでしょう。

    (未だに野生動物に死傷者を出されている環境というのはある意味フェアで正常な関係ですし)

    ・・・とまあグダグダですが;命は生死を超えて繋がっているので奪っても良い生命は狩れるし(狩りやすいようになる)奪ってはいけない命は無い(1個人でカンタンには絶滅出来ない)のかもしれません、強欲に任せて絶滅させない限りにおいてという感じですが狩猟文化では不文律で存在する論理ですよね?!

  13. ituki

    極端かもしれませんが、自分で動物を殺して食べる強さを持たない現代日本人はやはり、謙虚に食を頂くに限ると思います。

    キューバに住んでいたので、豚を殺すシーンを見ましたが、なるべく苦しまないように殺していました。(como matar un cerdo) とかで検索すると映像は見れます。殺される豚の鳴き声がなんせ辛かった。
     
    キューバから帰国して、パックに入った綺麗なお肉に随分抵抗がありました。
    ほんとうは、真実を子供の頃から見せるという教育が必要であると思います。

    twitterなどで、バットで殴り殺してやりたいや4ね(死ね)などの書き込みが多い現代の若年層に対して、バーチャルでない現場を見たときにもっと深く考えることができるのではないかと感じるからです。

    ちなみに、教員ですが、Twitterにバットで殺すと学生に書き込まれまたのは私です(ひどく傷つきましたが・・・)。本心は、卒業式にはバット持参で書き込んだ学生に頭を潰してもらおうと思っています。できないのなら、書くなと言いたい(余談ですみません)。

    同様に、動物を殺して食べる勇気がないのなら、謙虚に頂くことこれに限ります。

    重い話になってしまい失礼しました。
    自分を含めて日本人は腑抜けになりました。食ごときでと言われるでしようが、関連があると私は思うのです。

  14. テラサカ

    食べるために殺す。これは摂理というか、何を食べるかはそれぞれの個々の命が決めるべきことと思います。ただ、食べないのに殺すのは不必要な殺生で不必要な自然の搾取だから、殺された命に申し訳ないし、それは人間の生き物としてのマナー違反というか、共生のための他の動物への義務違反というか。それぞれの文化や事情があるとはおもいますが。だから、僕はとにかく殺したからには残さず食べることだと思います。殺されたものへの礼儀として。生き物の義務として。
    ちはるさんのアクションは、僕ら人間が毎日食べているのはたくさんの命で、命を食べるとはどうゆうことかを直視することで、人間が己を知り、自然との向き合い方を真剣に考えるきっかけになると思います。殺すことの申し訳なさのようなものが、他の命を大切にすることや、不必要な搾取をやめることにつながると思います。命をゴミのように捨ててる現状はあまりに酷いですから。
    がんばってください!ちはるさんの活動を見させてもらって、とてもたくさんのものをもらいました!自分もできることをします。

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