昔は流通などの事情で鶏やウサギ(他の記事ね)を自らの手で解体や食すなんぞ、私の祖父の世代(明治・大正生まれ)なら日常行われていた事です。お袋が子供の頃、確かに見た目は残酷だったけれど有難くいただいたと言っていました。
ご先祖様の肉食の歴史は数万年。実は菜食の歴史は浅い。
こうして我々子孫まで命を繋いで来た事実があるのだが、、、
批判されている方は動物の屠殺ばかり見ていないでまんべんなく記事を拝見してこの方の生き方を文面から理解するといい。
例えば他の記事にあった生き方に対する意識
→大量生産大量消費の暮らしに危機感を感じ「自分の暮らしを自分で作る」
以上を踏まえ! 批判されている方へ言いたいこと。
自分の生活が経済活動の中にあって完全に消費者であるのなら、尚更この方への批判はお門違いです。
それと「愛情が無い」「命に対する愛のかけらも感じません」「人殺しの理論とどれほど違うと言うの?」
これは全く意味不明で考え違いです。
何故なら、、、
人間も一種の動物であり、様々な生命と「捕食関係」の中にあります。
(いわゆる食物連鎖ってやつね。ここでは人間の順位は語る必要はありません。)
(まあ、最後土葬されず焼かれちゃうとバクテリアさんは食べ損ねちゃいますがw)
どこから引用したのか「命は平等」「愛情」を唱えるお方が居ますが、そんな訳で捕食関係にある動物同士には適用されません。
それはご自分の愛玩動物(=ペット)などに対して向けて下さい。
正しくは、「愛情」「命に対する」「人殺しの論理」などは我々人類同士に使われるべき言葉ですので間違い無いように。
最後に。
良いのですが、普通のブログ形式で投稿順に表示するだけだと動物愛誤の方々の標的になっちゃう気がします。
場面によっては、正直、少々グロいです(笑)
もう少し見せ方は入り口を分けられれば良いのですが。
失礼いたしました。
農作物や魚卵は残酷ではないのだろうか?
米や卵や根菜は実であり卵の命である。
食べる事は儀式であり自分の命を繋ぐ喜びである。
感謝する氏神の祭りがあり八百万は神となり供養する塚がある。
優れたハンターは美味しいかどうかではなく
命を繋ぐにはどうしたらいいか間引き方を考える。
捕り過ぎないように群れが健康でありますように。
解体しながら健康状態や何を食べているか生活習慣を知る。
相手の事を真剣に考える。食べて自分自身になるからだ。
自分で捕っても、お金と交換しても残酷な事に変わりはない。
ただ、相手を深く知る事、感謝する事に差はできるだろう。
言葉ではない。皿の上に・・・そして、残飯の量に。
]]>それを知った上でこそ、個人で色々考えられる前提が与えられると思う
それを知らずに動物愛護も現状肯定もありえないと思う
その間にあるのは命を奪う瞬間。でも、普段の生活では伏せられている部分ですよね。
おいしく食事できるのは、その瞬間を見ないで済むからだとも感じていましたが、改めて「食べる」ということを深く考えるきっかけになりました。大変興味深い活動だと思います。
]]>いやいや食料。。愛着も熱意もない。食料。だから、命を頂くとは口ばかり。
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